涼しかりける。
大変、ご無沙汰しております。
私事ですが、事故に合い右手を骨折に至りまして記事の更新を怠っておりました。
今出来ること、これからも出来ることについて考える日々でございました。
四季は移り変わり、もう冬ですね。
私は、やはり寄り添う形で祈り続ける事と確信させられる日々でございました。
私の様なものでも、生きるという選択をし続けておりますが、やはり息をしているだけでは、私には生きたこごちがしません。ゆえに、人と交わりその中で、影響を与え影響を受ける生き方それが私の様な孤独な人間には、好ましく心地の良い物であります。
皆様の中には、生きて来た意味をお探しの人も居られる事と思います。この前、久しぶりにスピリチュアルの集いの様なものが在り、面白い話が飛び交いました。
生きる事に意味は無く、自分自身が満足を得るために身を粉にして勤労されている人の話になり、その話の中に、生きるために働いておられるのに、自身の命を削り働くのはどうなのか?という、話になりました、私はこのような人間ですので、聞き流すように聞かせてもらいましたが、一つの事が耳に角をつけました。
それは、自殺の話でした。
私は、死と言うものを、そもそも、通過点のように考えておりますが寿命を自分で決めてしまうのは、いかなる物か、それは今生との別れを意味します。
絶望の淵での他界は、望ましく思っておりません。身を引くというのは美しささえ感じていますのです。そして、いずれ人は死にますですが、何故、今ではいけないのかの問いをされた事を思い出しました。
その時、私はこう答えた事を覚えています「生きている限り、チャンスはあるのですよ。」と、今思えば残酷なような答えです。
その後、その方は亡くなられてとお聞きしました。私はこう考えたのです。「チャンスがある」のではなく、人との繋がりが切れる。そして、それには、とても悲しみや無念さ、心に傷の様な物が残るから、もっと、自分と同様に回りも大事に思う気持ちを持つ事が、とても大切なのであると、自分を思うように、家族、友人等をもっと愛する気持ちがあれば、と思い起こしたのであります。
暖かいお茶が気持ち言い季節、とても涼しかりける。
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